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赤沢嘉則 展覧会出品情報
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![]() 多治見市文化工房ギャラリーヴォイスにて開催中のわんの形展は5月27日(日)までとなりました。 堺町画廊の30年展 30年間の全案内状の展示会が開催されます。初個展、二回目の個展の案内状も出品されるのでしょうか?感慨深いものがあります。 1999 夜景、2002華の雨 のDMが 出品されます 京都 平成24年 5月15日(火)~5月20日(日) 堺町画廊にて。 第41回 日本伝統工芸近畿展 第一部会 陶芸 入選 しました。 京都 平成24年 5月23日(水)~5月28日(月) 京都高島屋7階 グランドホール 大阪 平成24年 6月20日(水)~6月25日(月) JR大阪三越伊勢丹10階催物場 第32回 アルコラ国際陶芸展 と続きます。 La exposición del 32 Concurso Internacional de Cerámica de l'Alcora CICA2012 入選 アルコラ 平成24年 6月8日(金)~9月2日(日) アルコラ陶芸美術館 スペイン 詳しくはホームページの新着情報をごらんください。 赤沢嘉則ホームページ よろしくお願いいたします。
アトリエの整理も明日でほぼ完了する予定だ。新しいアトリエに移動する事を決めて、一ヶ月もの間ハウスダストと格闘する日々もようやく終わろうとしている。
もう海外の出品も体力が必要なので足を運ぶのはやめにしようと決めていた。落ちてダメモトでとりあえず送ったスペインのアルコラの陶磁美術館から入選おめでとうございますとのメールが送られてきた。入選したのはありがたい。しかし発送を完了して無事に向こうに到着するまで気が抜けない。 今回の入選も不思議な話、作品をごろんところがしておいて何の気なしにほったらかしておいた。他のコンペに応募しようかと思っていたのだが、作品がどういうわけかスペインの方に行きたがっている気がした。そしてスペインもこの作品を望んでいる気がしたのだ。 作品がいつまでも残ってほしいと作り手である私は愚かにも無理な思いを作品に託す。それが強いから絵の具が紙についてくれるし、釉の色彩が陶磁器に定着する。陶芸の場合は、炎というプロセスのおかげで執着が浄化されるのがありがたい。絵画の場合も浄化というプロセスがある事を発見した。 絵画の場合はパネルや仮張りの基材からいったんセパレートにしてしまう事が一つ。そして時間、環境による浄化だと自分の過去の作品が教えてくれたのだ。一ヶ月のアトリエの整理は30代をすごした過去の時間との別れ、と浄化、そしてじぶんにあたえられた幸運に対する感謝のきもちだった。 アトリエの整理をしていたから、作品の声が聞こえるようになったのかもしれない。作品に託した自分の思いをおもいだしたのかもしれない。 スペインに足を運ぶ事はないだろうけど、無事に向こうに到着してくれるとありがたいなと思います。今日、大きな日本画の作品や額縁をほとんど新しいアトリエに運び終えたので、明日、釉薬のテストピースを移動させて、部屋の掃除をしっかりして無事に引き渡しの予定です。
きのうから京都市内は京都マラソンの影響で多くの人をみかけます。きのうはみやこメッセで展示会をいくつか拝見しましたが会場間の移動でマラソンの参加者の波にまぎれてしまいました。作品展を見にいっているのかマラソンに自分が参加しているのか勘違いしてしまいそうでした。
きのうは京都市産業技術研究所の陶芸コースと漆芸コースの作品展に何年かぶりに足をはこんだ。陶芸コースの一年間のうち、ほとんどがうわぐすりや材料のテストピースをつくる事に徹する。毎年すこしずつ内容が変化するし、集まる人によって雰囲気は変わる。日本の色を上絵で研究していた。 日本古来の材料を上絵に混ぜてみたりしていた実験が興味深かった。なぜなら私がやっておこうと思っていたような内容だったからだ。研究したい事は次から次へ出てくる。時間と余裕の出来た時にすこしずつやっておくしかないのだろう。アフリカの石に上絵で彩色して焼いたのもあった。 萩から来ている二人が一生懸命絵付けをしている作品も目を引いた。絵付けの技術を学びに京都に各地からやってくるのだ。彼らを含めて次の世代はどんな未来を思い描いているのかを汲み取る事が出来ればと思う。ガラス粉をうまく使って色の実験的な作品の人もいた。色釉でポップなオブジェの人も。 有名な学校や研究所を卒業しただけで陶芸作家になれる時代はすでに終わっていると思う。そんなものは始めからないのだろう。若さは無意識のうちに生き抜く力をどこかに秘めている。いつの間にか失った何かを若い世代から学ぶ事はだんだん多くなってくるように思う。創造のヒントを彼らの作品から。 人込みをかき分けて漆芸の発表会へと場所を移す。漆芸の友人は何人かいるが、漆芸の基本を私は体験していないので技術的には知らない事が多い。漆も絵付けのあるようなものばかりで、余白が重要になるのだろう。余白が漆になる訳で絵を入れるからには私は絵柄と余白がぴたりと同じ空気を望む。 佐藤太清賞展の作品展も拝見しました。油画と日本画を同時に発表されていてなかなか考えさせられることがありました。油画の受賞作の内、しろい夏服をきた高校生たちが窓に寄り添って空には白銀の雲の作品が目を引いた。高校生の作品だが、さわやかでかつ冷静に色を選んで、全体を構成している。 美大の受験勉強の延長のような作品だけでなく、非常に素直な着眼点の作品が多いように感じました。非常にうまい作品が多いと思います。わたしはうまい作品は自分でつくろうとはおもわない。できるだけ他の人がやっていない事を誰よりもはやくやってきたし、これからもそうするつもりでいます。 きのうは3カ所の作品展を見て回って新しいアトリエの整理をしていたら日がくれてしまいました。そして今日は京都のタカシマヤで開かれている木村盛和先生の陶芸展に足を運びました。タカシマヤの店前は今日が震災後一年目で日曜という事もあって被災地への寄付を呼びかける人たちで一杯でした。 卆寿記念で90歳の個展というのは脱帽です。しかも新しい事に取り組めるというのは。基本のしっかりした造形に加えてオリジナリティの高い偏壷などみごたえがありました。今日帰ってまた一からがんばろうとおもいました。
先週は風邪を引いた日があって、インフルエンザかと思うほどの高熱と寒気がくりかえしおこって回転木馬に乗っているような気持ちだった。症状がおさまりかけたのを見計らって京都市立芸大の作品展を訪れた。
病み明けだったのであまり冷静に判断できていないかもしれないので許可を得て写したデジカメの画像もあわせて考察してみる。 はっきりいって一人一人違う作品というかよく考えてるのだろうと思われる作品がやはり多数を占める。そしてよく考えすぎてわからない作品も多い。明らかに感覚に頼ったと思われる作品は少ないように思われる。震災による感情的表現が表面的には薄い。 感情表現が弱いのではなく、不安な心理を思考化する事に焦点が置かれている傾向を新たに感じた。自分自身を客観視するのではなく、自分自身の表現力を客観視しているという傾向。現代の美術シーンでは全く通用しないいわばアートの職人集団のような気味の悪いモノを感じた。 人間とは何か?人生とは?我々は未来に向かってどう生きるべきか?といった事を作品が発しているという事がきわめて薄い。食っていくための表現力を提示する。それは社会が求めていることの裏返しなのだともいえるだろう。誰かのいう通りのモノをつくるロボットを社会が芸術系大学に求めている。 これは指導陣が求めている事ではなくて、学生の夢そのものがそういった内容なのであると思われる。なぜなら彼らは自分の意志によって創作していく義務があるからである。私の意見はあくまで全体感であって一人一人の可能性は一人一人の今後の努力と運命によって左右されるのだろう。 最も嘆かわしいのは日本画領域である。本来なら基本に徹すべきところを流行作家の絵癖を真似るだけの作品ばかりが目についた。これは基礎教育に徹してきた今までの歴史の積み重ねをあざけるように。基礎教育を甘く見ている彼ら学生が傲慢に気がつかないだけに他ならない。若年寄の最たるモノだ。 真実を求める姿勢がなければ美に近づけるわけがない。未完成でも何らかの真実を求める志があるかないかはわかる人にはわかってしまう。芸大に入っただけでは何にもならない。努力せず遊びほうけた者はやはりその報いを得る事になるだろう。努力した者が何らかの報いを得られるとは限らないが。 遊びごころはとても大切な要素だと思う。自分の作品でいかに遊んでいただくかという事はとても大切な事だ。そう思うとやらなければ行けない事が山のようにでてくるはずだ。 ボクよりも最新の技術を使いこなして、能力があって、表現力がある人は今まで、山のようにいた。今もいるだろうし、これからも当然でてくるだろう。すべてにおいて秀でれば出来のいい操り人形になるのが関の山だ。これは勉強と同じ事だ。どう生き抜くかというのはバランス感覚と直感が大切。 学生の作品をひととおりみるとボクよりもうまい人もうまくない人もいっぱいいる訳で。ボクがなんと思おうと彼らは自分の生き方を貫いていったらいいだけの話でボクになにか力がある訳でもない。自然なというより空気のような存在感の薄く感じるのは生活が苦しいからではないだろうか?材料費も。 日本の社会はわかりやすさを芸術に美術に求めたとしても。説明できないから表現しようと試みるのであってはじめから説明できるなら美術家や芸術家は要らないと思う。直感を表現していく芸術家を侮る国や政治家や権力者は己の傲慢の故に自らの尊厳に刃を向ける事になるのだろう。
昨日は嵯峨芸術大学の作品展を見て回りました。4年制になってからはじめてです。見やすく、シンプルに会場構成なされていました。
学生の作品展を見るほうが体力を使うというのは本当かもしれない。全体的に明るいのですが、震災の影響を受けたと思われる作品もいくつか垣間見えます。 一階の大きなホールの壁面に大型のペインティング作品と作者がそばにたって待っておられるというのは初めての経験でした。黒い布に覆われたカレイドスコープの部屋。先生とおもったら学生だった。感覚的には若い。ふと思いおこせばヴェニスBの作家たちの度量はずば抜けている。 マウスを使って動かすとくるくるまわるだけなのだが遊べる作品も増えてきた。ポリスバイクをくるくる見せる。来場している自分が何となく画面上に取り込まれていてスーパーインポーズされ合成される事でプレゼンを鮮烈にしている。 速水御舟の炎舞を3Dアニメにした作品はマウスで遊べる。発想を単純に表現するだけでなく複合的な角度からの表現の再考が多く含まれるようになってきた。コンピューターを直感的に使いこなす世代。当然と言えば当然かもしれませんが。 今年に入って美術館で京滋の美術系大学の作品展に足を運ぶと20代前半までは毎年必ず行っていたが、その後、めっきり足を運ばなくなった。当時は自分としては誰もが見てくれるものだと思っていて、関心のない人がいる事がわからなかった。 嵯峨芸の話に戻るが、油画の会場での事。建築の足場を組んで、木製のパネルをくみ上げて教会にあるようなキリストの絵画を展示してる学生の作品があった。こういう光景はミラノで修復中の最後の晩餐を17年前に見て以来、お目にかかっていなかった。創造と破壊、破壊と創造。恐れ入ります。
そう、1月から2月にかけて京都でも毎週のように芸術系大学の作品展が京都市美術館を中心に開催されます。ヴェネチアビエンナーレをぐるっとまわると、以外にもこの学生たちの作品展がある意味プリミティブなのだなと実感するようになってきました。時代をうつす、次世代の鏡のように。
先々週ですが、成安造形大学の作品展をゆっくり見て回りました。 本当にイラストレーションやアニメ–ションの影響を受けた作品が力強く感じました。ボクなんかアニメやマンガのデフォルメの影響をできるだけ突き放そうとした者からすると非常に自分の経験を大切に、大事にして深めていくような生き方もあるのではないかという印象を受けました。 全体的に色彩が鮮やかになってきて洗練されある種完成されたフォルムを提示する時代でしょうか?ボクらは世紀末、迷いがあったように思います。阪神淡路大震災の直後、卒展でした。本当に迷いました。彼らも迷いはあるでしょう。でもはっきりと鮮やかな色彩の印象でした。全体的に。 展覧会は誰もがじっくりと見てはいただけません。2、3秒の勝負です。それで目に留まらなかったらじっくりとは見ていただけません。以外と時間と旬の勝負です。
美という物があるとすれば。それを見いだせる人はまれです。
美を生み出すには自分に厳しくする事も必要。でも他人には優しく。 誰かのもつ美を見いだすにも自分への厳しさが必要。そうでないと目が曇って見つけられない。 ウソ偽りや悪意とは無縁。それは美と無縁なのです。 学生時代にお世話になった先輩方が、かたくなに美を求める姿。20年経った今も変わらず。やっぱりすごい。 普通じゃないと思うけど。それでいいと思います。 ボク自身も美を求め続けるという究極のテーマのおかげで悪い輩と無縁です。ありがたい。 感謝してまた明日、がんばろう。
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